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昭和12年(1937年)11月30日、小渡家の五男としてサイパンにて出生。
当時、沖縄県ではブラジルやサイパンに移民する県民が数多くいた。
そのサイパンで戦渦に巻き込まれ、終戦を迎える。
幼いころから病弱で針やお灸などの治療を何度も受け、今でもお灸のあとがうっすらと腕に残っている。病院通いが多かったため、学校も休みがち。
しかし「ガリー(痩せっぽっち)」とガキ大将に冷やかされ、売られたケンカは買ってやるとばかりに相手につかみかかるなど、負けず嫌いな面もあった。
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終戦後サイパンから引き揚げ、米軍施設に勤務。その後タイル貼り職人に弟子入りし、修行のため全国各地を転々とする。
後に独立し「小渡タイル工業」を設立。
また青年サークル活動を通して現在の夫人(小渡明美夫人)と知りあう。
【サークル活動集会にて】
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病弱な体質を改善するためヨガ道場に通いながら、様々な健康法を学ぶ。
昭和49年、マクロビオティックを通じて自然塩運動の活動家であった故・谷克彦氏と出会い、塩の研究を始める。
【台湾視察時のスナップ写真】
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昭和50年、結婚。5人の女の子に恵まれる。子供たちが小さいころはよく海に連れて行ったり、県内離島を旅行するなど家族サービスにも事欠かなかったが、思春期を迎えるころになるとあまりにも家族が多いのを恥ずかしがり、家族全員で出かける機会が減ってしまう時期もあった。
また、これも女の子の思春期特有といえる「父親離れ」も経験、「幼いころはあんなに慕ってくれたのに…」と世のお父さん方なら誰しも抱くであろう一様の寂しさを感じることも。
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昭和59年、住居を沖縄市から読谷村に移してタイル業の傍ら自然塩研究を続け、沖縄の伝統的な製塩方法を基に独自の製塩方法を編み出していく。
平成6年、タイル職人として数々の賞を受賞するが、塩作りのために夫人の反対を押し切って廃業。
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9月に立体式塩田タワーを伴った製塩工場を設立し、「沖縄食用海塩研究所」として本格的な塩作りに向けてのスタートを切る。
設立当時は専売法が施行されていたため、専売公社側の許可を受けて賛助会員を募り、会員配布という形をとっていた。
平成9年、専売法が廃止され、本格的に販売を開始。
平成10年4月、「株式会社沖縄海塩研究所」へ法人化。現在に至る。
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今は孫も増え現在9人。多忙な生活を送るも、孫たちの前では子煩悩ならず、孫煩悩なおじぃちゃんと化する。 |